鶴丸国永と愛着障害

鶴丸国永大倶利伽羅双騎出陣の千秋楽の日にこんなツイートを発見しました。(Twitterのスクショをそのまま引用するので、気になる方は該当ツイのアカウント様の発言をごらんください)

これを見て、才能があるということはかなり強く揉まれて来た、心の傷がある人となっています。
この発言の最初は政治家のビスマルクさんという人物の逸話からのようです。
彼の偉業はWikipediaで見てください。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF

このビスマルクという人とにかく才覚がある人ではあるんですが、過食という精神障害も抱えていたそうで、結果を言えば才能があるということは、一種心のバランスを取るのが大変という事です。
ツイートを見ていた時に思ったのですが「鶴丸国永はそういう部分あるな」と……双騎出陣が来た事で鶴丸国永に対してのミュージカル側の情報提示はある程度終わったのです。
舞台本丸も无伝を上演し、第一部は完になっており、2.5側の情報と原作ゲームの鶴丸国永と照らし合わせ濾過した「共通点」があることに気が付きました。

これは再虚伝義伝悲伝を演じた健人さんの鶴丸国永
虚伝旡伝維伝を演じた染谷俊之さんの鶴丸国永
にも共通します。ミュージカルにおいて演じてる岡宮来夢さんの鶴丸国永にも顕著にあったので(逆にミュージカル本丸はわかりやすかった)考察として書いておこうと思います。

原作ゲームの鶴丸国永は墓から掘り出されたこと、驚きが好きなことを提示されます。
これをザクッと考えると鶴丸国永は他の刀と明確に違う部分があります。「死」という異物を物語の中に内包してるんですよね、他の刀剣男士にも物語の齟齬として影響のある個体は少なからずあります。
この刀剣男士の物語は我々人間にとって精神状態に似てます、人間に喩えれば虐待されて育った人とそうでない人では、将来的に与える影響が全く違ってきます。
鶴丸国永は虐待されたわけではありませんが、本来、刀というか物が持っているにはかなり重たい「墓へ入った」という物語を持ちます。
日本神話で有名なニニギノミコトの結婚の話で、ニニギノミコトは美しいコノハサクヤヒメだけを選び、イワナガヒメを拒絶します。
これは、素直に受け止めればやべー男なのですが、この二人の姫はそれぞれ「生のコノハサクヤヒメ」「死のイワナガヒメ」と別れており、この2つを取り込むことにより「生きながら死ぬ状態になる」ことで、不老長寿を神は獲得しています。
ニニギノミコトは死を拒絶し、限りある命によって生きることを選びました。なので、我々人間には寿命があると言われています。
これを鶴丸国永にあてはめると彼は御物ではありますが
、元々は太刀です。付喪神は人間が居ないと存在せず、鶴丸国永は人間が信仰したことにより生まれた付喪神と考えると人間が願った器の中に死が入り込み「擬似的に生きながらにして死んでいる状態」になっているのでは無いか?と考えました。

そうするとどうなるかというと、鬱病に似た状態になるんじゃないかな?と鬱病抑うつ状態を経験したことがある人は多いと思いますが鶴丸国永は常に精神的に不安定な状態を顕現時から強いられて居るのでは?と考えます。
かなり昔に、原作ゲームの声を担当した斎藤さんが「鶴丸国永は寂しがりやと解釈した(意訳)」と言っていたのもなんとなくわかるのが2.5本丸の鶴丸国永は「試し行動」が多いと思うんですよね。
試し行動についてはGoogleで検索してもらうか、とりあえずカウンセリングルームのブログを引用として貼り付けます。

https://antenote.com/adult-trial-behavior/

鶴丸国永の露悪的な言動、落とし穴を掘るなどの驚かせ行動、驚きが欲しいという性質は逆を言えば「愛されたい、自分が此処にいる実感が欲しい」ということだと考えると寂しがりやと表現した斎藤さんスゲーなってなりましたよね……。
鶴丸国永の驚きってどんなものか7年間引っかかっていたんですけど自分自身が此処にいて愛されてる実感が欲しいということならば、なんとなく今まで理解出来なかった部分が自分の中だけですけど説明つく気がします。

•義伝において黒くなった鶴丸国永が黒甲冑の意識をコントロールする描写があったが、それでも最後まで仲間と斬りあった
•旡伝において、三日月宗近にどうして狂わずにいられる?と問いかけた
•仲間のこと心配したり、気にかけるのに自分の話はせずに時には仲間を突き放したような態度をとるミュ鶴

これらが試し行動ならば、悲伝の時に三日月宗近に色んなものを突きつけてきた鶴丸にも説明つくなと思いました。
あと、こういう試し行動をする人は試し行動をする相手も見極めてますとのことで、なので旡伝の時に三日月の周りをチョロチョロやってた鶴丸国永はきっとこれも三日月を試してたんだろうなと、健鶴は真っ直ぐ三日月を試してましたけど、染鶴は三日月と同調しながらも最後の最後にどうして狂わずに居られる?と問いかけたところを見るに、染鶴はひろちかに心を預けられるかどうか葛藤があったのかな?と考察すると沼が深え、ビールくれや……。

あと、ミュージカルの双騎での来鶴は精神的に不安定に演じられているので伽羅ちゃんとのすれ違いもありますがその冷たさや自分を含めて何ものにも執着しなさ、されなさ、笑顔で取り繕って居るがその本心の中に喪失感と寂しさがあるのが理解できる、うっ大将ビールおかわり……。