鶴丸国永と愛着障害

鶴丸国永大倶利伽羅双騎出陣の千秋楽の日にこんなツイートを発見しました。(Twitterのスクショをそのまま引用するので、気になる方は該当ツイのアカウント様の発言をごらんください)

これを見て、才能があるということはかなり強く揉まれて来た、心の傷がある人となっています。
この発言の最初は政治家のビスマルクさんという人物の逸話からのようです。
彼の偉業はWikipediaで見てください。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF

このビスマルクという人とにかく才覚がある人ではあるんですが、過食という精神障害も抱えていたそうで、結果を言えば才能があるということは、一種心のバランスを取るのが大変という事です。
ツイートを見ていた時に思ったのですが「鶴丸国永はそういう部分あるな」と……双騎出陣が来た事で鶴丸国永に対してのミュージカル側の情報提示はある程度終わったのです。
舞台本丸も无伝を上演し、第一部は完になっており、2.5側の情報と原作ゲームの鶴丸国永と照らし合わせ濾過した「共通点」があることに気が付きました。

これは再虚伝義伝悲伝を演じた健人さんの鶴丸国永
虚伝旡伝維伝を演じた染谷俊之さんの鶴丸国永
にも共通します。ミュージカルにおいて演じてる岡宮来夢さんの鶴丸国永にも顕著にあったので(逆にミュージカル本丸はわかりやすかった)考察として書いておこうと思います。

原作ゲームの鶴丸国永は墓から掘り出されたこと、驚きが好きなことを提示されます。
これをザクッと考えると鶴丸国永は他の刀と明確に違う部分があります。「死」という異物を物語の中に内包してるんですよね、他の刀剣男士にも物語の齟齬として影響のある個体は少なからずあります。
この刀剣男士の物語は我々人間にとって精神状態に似てます、人間に喩えれば虐待されて育った人とそうでない人では、将来的に与える影響が全く違ってきます。
鶴丸国永は虐待されたわけではありませんが、本来、刀というか物が持っているにはかなり重たい「墓へ入った」という物語を持ちます。
日本神話で有名なニニギノミコトの結婚の話で、ニニギノミコトは美しいコノハサクヤヒメだけを選び、イワナガヒメを拒絶します。
これは、素直に受け止めればやべー男なのですが、この二人の姫はそれぞれ「生のコノハサクヤヒメ」「死のイワナガヒメ」と別れており、この2つを取り込むことにより「生きながら死ぬ状態になる」ことで、不老長寿を神は獲得しています。
ニニギノミコトは死を拒絶し、限りある命によって生きることを選びました。なので、我々人間には寿命があると言われています。
これを鶴丸国永にあてはめると彼は御物ではありますが
、元々は太刀です。付喪神は人間が居ないと存在せず、鶴丸国永は人間が信仰したことにより生まれた付喪神と考えると人間が願った器の中に死が入り込み「擬似的に生きながらにして死んでいる状態」になっているのでは無いか?と考えました。

そうするとどうなるかというと、鬱病に似た状態になるんじゃないかな?と鬱病抑うつ状態を経験したことがある人は多いと思いますが鶴丸国永は常に精神的に不安定な状態を顕現時から強いられて居るのでは?と考えます。
かなり昔に、原作ゲームの声を担当した斎藤さんが「鶴丸国永は寂しがりやと解釈した(意訳)」と言っていたのもなんとなくわかるのが2.5本丸の鶴丸国永は「試し行動」が多いと思うんですよね。
試し行動についてはGoogleで検索してもらうか、とりあえずカウンセリングルームのブログを引用として貼り付けます。

https://antenote.com/adult-trial-behavior/

鶴丸国永の露悪的な言動、落とし穴を掘るなどの驚かせ行動、驚きが欲しいという性質は逆を言えば「愛されたい、自分が此処にいる実感が欲しい」ということだと考えると寂しがりやと表現した斎藤さんスゲーなってなりましたよね……。
鶴丸国永の驚きってどんなものか7年間引っかかっていたんですけど自分自身が此処にいて愛されてる実感が欲しいということならば、なんとなく今まで理解出来なかった部分が自分の中だけですけど説明つく気がします。

•義伝において黒くなった鶴丸国永が黒甲冑の意識をコントロールする描写があったが、それでも最後まで仲間と斬りあった
•旡伝において、三日月宗近にどうして狂わずにいられる?と問いかけた
•仲間のこと心配したり、気にかけるのに自分の話はせずに時には仲間を突き放したような態度をとるミュ鶴

これらが試し行動ならば、悲伝の時に三日月宗近に色んなものを突きつけてきた鶴丸にも説明つくなと思いました。
あと、こういう試し行動をする人は試し行動をする相手も見極めてますとのことで、なので旡伝の時に三日月の周りをチョロチョロやってた鶴丸国永はきっとこれも三日月を試してたんだろうなと、健鶴は真っ直ぐ三日月を試してましたけど、染鶴は三日月と同調しながらも最後の最後にどうして狂わずに居られる?と問いかけたところを見るに、染鶴はひろちかに心を預けられるかどうか葛藤があったのかな?と考察すると沼が深え、ビールくれや……。

あと、ミュージカルの双騎での来鶴は精神的に不安定に演じられているので伽羅ちゃんとのすれ違いもありますがその冷たさや自分を含めて何ものにも執着しなさ、されなさ、笑顔で取り繕って居るがその本心の中に喪失感と寂しさがあるのが理解できる、うっ大将ビールおかわり……。

三日月と鶴丸の色についての考察

こんにちは、前からYou TubeSound Horizonさんが楽曲公開を行っていたのを今更ながらに知りました、ヲタクです(自己紹介)
それで、Sound Horizonさんのアルバムの一つである「Märchen」なんですけど、これの考察をしているブログやツイートを読み込んだ時にですね、以前Twitterにて私が考察していたものがありまして、テーマとして発表します。

「青黒という色の組み合わせは白金と同一」

これもTwitterで話題になったんで、誰か知ってると思いますが青黒のドレスが白金の色配置に見える錯覚、錯視の記事がありまして、現在でもGoogleで「青黒ドレスと白金ドレス」とか検索すると出てきます。
この錯覚についてざっくりと説明すると、色相が正反対になるものはそもそも我々が色を認知する光に当てると反対になるので、黒と白、青と金(黄)についてはある意味で同一の下地を持っていると科学的根拠として説明出来るそうです。

↓一応、該当の記事を貼っておきます
https://www.gizmodo.jp/amp/2015/03/dress_blue_white.html

それでこの青黒と白金なんですけど、Sound Horizonさんの話がここでやっと出てきます。この楽団さん、考察が好きな人には有名なんですけど、知らない人も居たらアレなんで、ざっくり言うとストーリー仕立ての楽曲を発表してまして、Märchenというアルバムですがこのアルバム一つで舞台や映画が出来ちゃうくらいのストーリーが展開されています。
そして、Märchenの舞台は魔女狩りやペストが流行した時代です。

↓気になる方はこちらのリンクかYou Tubeで検索してみてください。

"Amazon | Marchen | Sound Horizon | アニメ | ミュージック" https://www.amazon.co.jp/Marchen-Sound-Horizon/dp/B0043BOQO8

中世のヨーロッパには切っては切れないものとしてキリスト教があります。文化に置いても歴史においても宗教は人間を救うためのものとして進化してきました。
このMärchenを考察するアカウントさんで「青の衣を纏った人間は宗教的に見て聖母を表す」というものを拝見しました。
そしてこれには続きがあって書き出します。

青の衣を纏った存在は聖母とみなし、白の衣を纏い金の意匠を持つ存在は聖母から生まれし救世主と見なすといものです。このMärchenには、7つの物語、ストーリー進行をする男性と可愛い女のコの人形の他に自分の生い立ちを歌う歌姫が存在します。
そして、それぞれが七つの大罪と連動しており、七つの大罪には動物が組み込まれているのですが、一部違っていたり歌詞カードなどを眺めることにより理解もできます。
その中のヒロインポジションの歌姫にはユニコーンが当てはめられており、ユニコーン貞淑の象徴ですが他にも白と金を使うことから救世主であり、月の象徴も表すそうです。


ここまでの話から妄想すると、刀剣男士三日月宗近の配色は差し色で白は入りますが主な使用配色は「青と黒」次は鶴丸国永、主な使用配色は「白と金」です。
つまり色だけを見ると、三日月宗近は聖母を表し、鶴丸国永は聖母から生まれる救世主を表します。
これがこのまま二振りの関係性に当てはまる訳ではないです、なので私はこう解釈します。
鶴丸国永は三日月宗近の物語から派生した刀剣男士である」
つまり、三日月宗近の物語という母体から誕生した刀剣男士が鶴丸国永であり、鶴丸国永は三日月宗近とは同じ親をするというより三日月宗近鶴丸国永の存在補填する関係性だと思考します。
これもTwitterで呟きましたが、グランブルーファンタジールシフェルサンダルフォンのような関係性と言った方がこのブログ読む人には伝わりそう。

グランブルーファンタジールシフェルサンダルフォンという天使(あくまで誤用します)を作り出した話があるんですけど、それはゲームで読んでみてください。
でももしかしたらですけど、三日月と鶴丸が共通する親のような存在があって二人が双生児のように誕生したという線もありそうでわくわくします。

刀剣男士と悪魔の証明(刀剣乱舞無双の話)

刀剣乱舞無双伯仲の章をクリアしました!ワーパチパチ!内容のネタバレとか会話とかの話はしませんが、作中での山姥切国広と山姥切長義のやり取りなどを聞いて「私個人が感じた事」を語ります。

そもそもこの二振りの成り立ちって山姥切国広が写し、山姥切長義が本科ということになっています。
刀剣の写しとは、その刀工が目の前にある名刀を見て研究し姿を写したものです。堀川国広が長尾顕長という武将に依頼され、現在の足利市で打ったものが山姥切国広、元になった山姥切という刀は長船派の刀工である長義が打った「太刀」です。
ここで、伯仲村のヲタクの方が詳しいけど私が調べた限りの事をざっくり書くと、この長義という刀工は現在の徳川美術館さんに所蔵される打刀、つまりは原作ゲームの刀剣乱舞に出てくる山姥切長義の刀身モデルになったと思われる本作長義を打った人と同一人物だと思われます。(京都博物館さんでの聚楽第コーナーで見ましたが思ったよりゴリゴリにゴツい刀でした)
彼は鉄砲水により壊滅した長船の里の生き残り(長船派の刀工集団は住んでいる岡山の村が鉄砲水により殆どの刀工が亡くなった為に崩壊したのが現在の主流です)であり、彼はあの相州派の正宗へ弟子入りし、唯一無二の作風である相州長船というものを作り上げた人です。
なんでもそうですけど、物を作り上げて自分のものにするのは大変なのは同人誌作ったことあるヲタクは理解できると思うので本作長義先輩パネェ!かっけえ!すげえ!ってなる、私はなる。

でもその本作長義さんが打ったとてもすげえ、山姥という鬼をも斬れると評判の山姥切は現代には存在しないんですよね。残されたのはその山姥切を模したとされる山姥切国広なんですけど、ここで題名の悪魔の証明が入るんですよね。
資料にも現実にも山姥切は存在せず、まさしく存在証明が写しの一振りだけに集約されてしまい、山姥切国広が存在しているから、山姥切が存在した!山姥切国広が素晴らしい刀だから山姥切だって素晴らしい刀だ!という暴論と、写しとは本来どんなものなのかという知識を我々が失ったが故に刀剣男士の山姥切国広はあれだけ拗らせた性格をしているとも言えます。

じゃあ山姥切長義ってなんなの?という推論を話すと、彼は彼で山姥切国広へ向かった暴論の被害者とも言えます。彼は恐らくですが、山姥切国広が居なければ本作長義という刀の集合体、和泉守兼定などと似た存在定義で刀剣男士として顕現していたと私は考えています。
そこに「太刀であり山姥切国広の本科である山姥切を打った長義」という物語が入り込んでしまい、彼は自己を山姥切と定義して刀剣男士として顕現してしまったのでないかと思いました。
本作長義の集合体であり、山姥切国広の本科である山姥切長義は本来よりもかなり不安定な個体、だからこそ山姥切国広を否定することでアイデンティティを保っているのかなと、長曽祢虎徹を贋作だと蜂須賀虎徹が否定することで源清麿へ集合されない逆を山姥切長義はやっているのかもしれない、伯仲の章でもしもこうだったら悲しいなぁと思ったという話でした。

献上記念日だし、鶴丸国永の話をしよう

令和になって、また鶴丸国永献上記念日がやってきました。なんの御祝いも出来なかったんですが、最近、素人考えで考察した個人的な鶴丸国永論を気持ち悪く語っていこうと思います。

結果から言うと「鶴丸国永の驚きを求める側面とは、神話の豊穣神の二面性に近いのではないか説」です。

鶴丸国永って割と真面目な気質な刀であるんですよね、でも軽妙でお祭りや驚きという心がわくわくすることが好きな、でも戦いを忘れない、極みの手紙の中には鶴丸国永が「何故自己が驚きを求めるのか」という考察をするんですけど(修行行かせてない審神者さんすいません)この驚きを考察する鶴丸国永が松を象った衣装で来るというのも繁栄を意味する植物=豊穣を祈っているという事だと考えると、鶴丸国永の二面性は豊穣の神の二面性に近しいのかな?と……。

有名どころだとギリシャ神話のハデス、そして日本神話だとイザナミノミコトなどは冥府と豊穣どちらも持ってる属性の神様です。
後はイシュタル、この神様も豊穣の神様ですが割と気性が荒く、兄弟に冥界を司るエレキシュガルという神様がいます。
つまり、作物を育て豊かな土地になることと、その土地が作物を作らず土壌を休ませることは昔から同じものとされていることが多く、墓入りをして人々の死や滅びを見守った鶴丸国永にも同じ現象が起きてたら面白いなぁと、それが驚きなんじゃないかな?と驚きって色々ありますが滅びを見守る老成した人を突き放す死(老人)の部分と、心が躍るような勝負や楽しみを得る驚きという生(若者)の部分で鶴丸国永は構成されているのかな?と、どちらも知るということはあの刀は豊饒を司どると言っても過言じゃないかもしれない……。

みっちゃんや桑名くんからは大好評そう……。もしかして、みっちゃんが色んなメディアミックスで鶴さんに懐いてるのそこなのだろうか、みっちゃんはどちらかというと「命あるものを育てる、守る」という側面が強い刀だと思うんですよね。
これは伊達の刀には誰にも言えることで、極めてから顕著に伽羅ちゃんは統率に振って来てますし、貞ちゃんは太陽の鎧の格好をして帰ってくるので彼らは「豊饒を維持し、守り、鼓舞する」事が元来上手いのかもしれない、何かを守る為に戦える刀なのかな?と、そうすると豊饒と飢餓を繰り返す鶴さんの側にいる存在としては適任なんだよなぁと思った次第。

三条派の刀剣男士考察

静かの海のパライソもとい、静かの海の底なし沼の底からこんばんは、鶴丸国永キチガイヲタクと名乗るにはおこがましいけど、考察するのが好きなヲタクです。

私は刀ミュの演目は幕末天狼傳とつはものどもがゆめのあとと葵咲本紀と歌合と壽が好きなのですが(厳島神社のもいいよね!)(もちろんパライソも好きだよ!でも最新だから敢えて入れなかったよ)此処まで来て、ゲーム刀剣乱舞でもうちの小狐丸さん(足利に山姥切国広観に行ったら山伏国広さんが鍛刀してくれた子)が修行から帰ってきたので手紙の内容自体は公開しませんが、そこからと刀ミュの演目や刀ステの演目で「共通する部分だけ抜き出して」考察します。

私は2.5次元は新たな情報をお出しされている部分はあるけども、ミュージカルも舞台も根本は一緒でも見えている部分は違うという説を採用しています。
なので、共通点のある情報と手紙の情報、私の本丸では今剣、岩融、小狐丸が極めています。彼らの手紙の情報といわゆるメディアミックスの情報との共通項である部分から観た「三条派の刀剣男士とはどんなもので出来ているか」を語っていきます。

そもそも刀剣男士の前情報として刀剣男士がどういう逸話で出来ているかはその個体によって違います。
しかしハッキリと三条派は「実際に起きた実としての出来事と人間がこうじゃないかと空想した虚の部分から完成している」というのが私の意見です。
虚としての部分は打ったと言われる三條小鍛冶宗近という人物は実際には存在しましたが、伝説的かつ神格的な部分も多く占めているので実際にどんな生まれてどんな人生だったのかは不明です。
それに乗っ取って、虚と実の割合が多いか少ないかという構成で出来ていると思っています。

虚から出来ている子
今剣→義経記という物語の中でしか登場しない、精神的に幼く岩融とセットで語られる
岩融義経記という物語の中でしか登場しない、今剣とセットで語られるが今剣よりかなり精神的に大人でアイデンティティに敏感
こちらは二振り共に本体が存在せず、三条宗近の鍛冶師としての神のしての側面が強く出ている気がします。
後世の伝説が、人々の祈りが「英雄は聖なる武器やそれを立証できる品物を持つべき」という形が二振りの成り立ちとしたらばアーサー王のカリバーンやエクスカリバーが人間の形を取ったと言うのが正しいと思います。
真偽というより、人々が信じたかった浪漫が形になった刀剣男士という認識。

実から出来ている子
三日月宗近→日本で一番有名な三条宗近の刀、宗近の刀の銘入りはほぼ現存していない為、我々が観れる銘入りの宗近では唯一無二かもしれない。
こちらは刀工としての三条宗近の存在を証明する唯一の刀とも言える事実から存在します、その後の歴史でも度々目録にあることから三条宗近が生きた人間としても語れる

虚と実、どちらも入り乱れている子
小狐丸→有名な小鍛冶という演目を主な依代としている、本体は現在、存在しない(江戸時代かそれより少し前までは本体が存在したという説がある)がかなりの数の写しもある為、彼はどちらかと言うと髭切や膝丸と存在証明は似ていると考えています。
石切丸→彼も本体は存在するし、同じ銘の石切丸だって刀として存在するけれども長年、人々が祈り信仰を得ていたことを考えると「石切神社の石切丸は三条宗近が打った素晴らしい刀である」という信仰者達の願いや祈りが多くを占めている為、実はあるけれども虚としての「本当にその刀は三条宗近が打ったの?」という部分も入り込んでいる。戦前に行方不明になったり盗難もされている為、彼は彼で髭切や膝丸に近しい存在と考えています(私の中で)(もちろん、あれだけの信仰を集める石切神社様の石切丸は後世に伝えるべき刀である素晴らしい刀であるのは私は実際に観て居るので間違え無い事実であると認識しています。)

この4振りが三条派なのですが、三条宗近の存在証明においてもう一振り言及するとするとそうですね、鶴丸国永ですね!
五条国永という刀工は存在し、尚且つ研究がまだ進んでいなかった頃は鶴丸国永は三条派の刀工が打ったとされていました。実際に分派された五条という刀工集団の中で打たれた刀だったのですが、この五条国永はその腕前から「三条宗近の直接の弟子だった」とか「三条宗近の孫だった」という説もあるそうです。
古い本にも山城伝で、三条派にかなり親しい刀工としても名前が知られ、鶴丸国永は三条派の刀を復元する時の資料としてもされていました。
三日月宗近のうちのけを復元するプロジェクトで実際の刀工さんが使用しています)
つまり、三條小鍛冶宗近は「個人」なのか「集団」なのかという問いかけは解らないですが(まあ奈良県に子孫が存在してるしねぇ!実際には居たんだろうな)三条の刀達の存在を証明する為には、実際に本体が必要であり、それが現在まで残っているのはこの中だと三日月宗近鶴丸国永しか居ないので、メディアミックスでペアになっても仕方ないですねとは思うんだけど、それをゲームでハッキリしてくれ、な??な???

4章ユガクシュートラのジュナさんについて

忘れないうちにメインストーリーの感想を書こうと思って書いています。
私、4章をプレイしたの半年くらい前なんですがストーリーはそこそこ楽しめたのですが、なかなか消化できないところがあったのですが、最近、作業用BGMとして型月世界をこう考えると解りやすいよという動画を流しながら周回しているのですが、そこで私なりの「アルジュナについてこうして考えると私の中で腑に落ちるな」というのを当たってるかわからないですけど書いておきます。

一番腑に落ちないのは「カルナさんどうしてそんなん下駄履かされてるん?」という所です。アルジュナって異聞帯の王なんだけど、現地に召喚されるサーヴァントによって撃破してきた訳なんですが、なんでカルナさんやったんやろ?そしてダメ押しパワーアップしたんやろ?という疑問がありまして、そしてなんでカルナさんは時と精神の部屋に落とされたん?ってとこもありまして……それで私は考えました。

「あの、ジュナオさん、つまりアルジュナオルタさんってコヤンスカヤさんとかキアラ様、カーマちゃんと同じ状態だったのでは?」
と思ったのです、つまりジュナオさんはビーストの幼体だったという説です。
そうするとカルナさんがめちゃめちゃに下駄を履かさせたのがわかります、だってビーストとかホイホイ産まれたら世界の均衡が大変なことになるのでは、これ……というキアラ様もカーマちゃんも色んなものを食べて吸収してたのだが、ジュナオさんはどういうキッカケなのか解らないけどおそらく神から貰ったパーシュパタとかの影響で統合に統合を重ねてああなったけど、神同士の食い合いみたいな状態へ変化→ビーストの幼体化になったのかな?と………。

これのきっかけが間桐桜さんがもしもアヴェンジャーと勝ち上がって聖杯と一体化したらば、ビースト完全体になっていたという仮説だったんですよね、アルジュナ間桐桜と同じ状態で間桐アルジュナになっていたんじゃないかな?と考えると、カルナさんはエミヤなわけです、世界がカウンターとして送り込んだ英霊な訳ですから何が何でも世界(それがアラヤの願いなのか、ガイアの願いなのかは私にゃ解らない)からしたら勝ってもらわないとめちゃめちゃだよぉ!からのスーパーカルナさんなのでは?という事です。
5.5章の条件を見て確信が持てたというか、アルジュナさんには少なくとも「誰にも傷ついてほしくない」「争ってほしくない」という愛は持っていたので、それが故にこうなってしまったとか思うとめちゃめちゃ悲しいな……。

いや私のもう言だから、本当に当たってるのかどうか解らないけどね、本当に

无伝は誰のための物語だったのか

无伝の千秋楽が無事に終わったので、ちょっと色々解禁したかな?という感じで思ったことを書きます。
感想でも考察でもお気持ち表明でもありませんが、お付き合いいただける方いたらどうぞ。

私は5月の配信を買って観たんですが最初に観た感想が「えっ?」でした。
割と真田十勇士に重きを置いていたので、刀剣男士が活躍するのを観たい人にはちょっと物足りないかな?って印象です。
別に真田十勇士が嫌いな訳でも、オリジナルキャラクターが云々でもなく、天伝が割とストレートに刀剣男士と元主の素直な話だったので、无伝は補完する話になると思っていました。

個人的に无伝は大好きですが、人を選ぶなぁって感想です。そこで私は「どうしてこういう話になったのか?」を無い頭で考えました。
「この物語は誰のための物語だったのか?」というのが私の中でかなり大きな疑問だったのです。

三日月宗近の物語なのか?高台院の物語なのか?それとも如水なのか、秀頼なのか?
真っ先にこの物語は「真田十勇士が大きな割合を占めるが、真田十勇士のための物語では無い」という結論は出ました。
この无伝の食感と口当たりに心当たりがあったのです。
別の話ですがFGOの二章四部インド異聞帯ユガクシュートラというシナリオが有るんですが、最近のキャンペーンで3月か4月頃にクリアしました。
このインド異聞帯、まぁゲームやってる人割と居るので出したんですがこれも「誰のための物語なのか?」という疑問を抱いたシナリオでした。
ちなみに異聞帯というのは「正史の歴史において、誤った進化を選んで完成した世界」です、つまりは刀剣乱舞における、歴史改変が進んだ放棄された世界に似ています。
FGOでは特殊な状況において、世界の異物として書かれますがこの刀剣乱舞というか舞台刀剣乱舞の世界観においては揺るぎない正史があり、その正史と並行するように放棄された世界がある。という状況だとざっくり理解してます。
つまり、舞台刀剣乱舞の正史の自浄作用が優れていれば正史に取り込まれて無かったことになる世界だと解釈すると、歴史改変が起こっても割と問題はないのだろうと思うのですが、もしも歴史改変が進んだ世界のまま、世界が完成してしまった場合、正史になんらかの影響が出る可能性がありそれを時の政府は懸念していると、維伝で南海先生が言ってたのをふと思い出しました。

そこから思ったのは「この无伝という物語は、舞台刀剣乱舞という世界のための物語だったのではないか?」という結論です。

放棄された世界、改変された歴史というものがどんなものなのか我々には想像出来ませんが、舞台刀剣乱舞でしめされた改変された歴史には、真田丸と名前のついた巨大な街に暮らす民と刀剣男士と遜色無い力と物語を持つ真田十勇士、つまり改変された歴史における刀剣男士こそが真田十勇士であり、その刀剣男士が歴史を守れなかった話こそがこの无伝の話だったのではないか?
ある一つの本丸が歴史を守れなかった話を書いたと考えると結構、腑に落ちました。
私はね。
つまり、无伝における異物こそが正規の刀剣男士であり、その中に我らが結の目、三日月宗近がいる訳です。その改変された歴史の中でしか、高台院様に会えなかったのがまたなんやろなぁって草原に寝転ぶ気持ちでござる。